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前回の記事で、変化の前のわたし自身の認知の根底にあったものとは何だったのでしょう。

 

恐怖心を感じた自分 → 臆病な弱い自分

委縮した自分 → 情けない自分

抵抗できなかった自分 → 劣っている自分

 

すべて否定的に受け取ってしまっているところは一緒ですが、根底にあるのは、他人と比較していることです。

 

負の認知の根底にあるのは比較

 

(他人よりも)臆病で弱い自分

(他人よりも)情けない自分

(他人よりも)劣っている自分

 

そもそも比較というのは、ある基準の元でなされることであって、その人の存在そのものを(無条件・あるがままに)見ているというわけではありません。

 

しかし、学校や企業のような組織での活動においては、その人そのものではなく、他の人と比べて、成績や評価をつけるという、相対的評価がベースになってしまっているのです。

 

外的評価への依存

 

自分の存在の価値の拠り所を、学校の成績や組織での評価に従うようするとき、外的評価による依存がはじまります。

 

例えば、成績がトップだから、自分という存在そのものもトップクラスであり、企業での年収がトップレベルだから、自分という存在そのものもトップレベルだというふうに。

 

しかし、これは誤解であって、トップなのはあくまでもある基準(偏差値、年収)においてそうであるだけであって、その人の存在の価値が、同じようにトップだというわけではないのです。成績や年収は他人と比べられますが、そもそもその人の存在そのものは、そのような仕方で、評価されえないものなのです。

 

成績や年収は、人の属性にすぎないのであって、その価値はそのときたまたまのものです。

 

しかし人の存在そのものとは、一人ひとり独自のものであり、比べることも、侵すこともできないものなのです。

 

私たちが傷つき、侵されたとおもっているのは、自分の属性の部分であって、その人の存在そのものは、傷もつけられないし、侵されることも本来できないものです。

 

低い自己肯定感の根元にあるもの

 

自己肯定感を低める根本にあるのは、この自己の属性に自分の価値を見出そうとするその人のあり方と、そういうあり方を推奨する・強いる周囲にいる人たち・環境です。

 

なぜなら自分の年収という属性に自分の価値を見出している人は、その属性の価値が失われたとき、自分を肯定できなくなり、自己否定的になってしまいます。

 

属性とは、たまたまその時、という性格のものであり、その会社が倒産した時、自分が健康を害して、働けなくなった時には、それは失われてしまうからです。

 

属性はその時たまたまという性格を拭い去ることはできません。したがって属性に依存することは実は常に不安を伴うものなのです。

 

神経症の大元にあるもの~相対的な自己理解

 

神経症の大元にあるのは、あるがままの現実の自己を受け入れられないことからくる自己葛藤です。

 

自分は、常に年収1000万円以上で、エリートサラリーマンでなければならないのに、なぜか理不尽にもリストラされ、失業状態になってしまった。転職しても以前のような収入は得られないと知ったとき、そうした現実の自分を受け入れられなくて、恥ずかしくて人とも顔をあわせたくなくなり、引きこもってしまうとすれば、それは神経症に片足を突っ込んでしまっている状態となるわけです。

 

このような自己肯定感の低下や神経症が発症する大元にあるのは、本来人と比べることができない自分の存在そのものを、自分の属性の価値で、比較し評価してしまっているところにあるのです。

 

こうした自己理解のあり方が「相対的な自己理解・現実理解」ということであり、それ自体は、学校や企業で活動する上で必要なものではありますが、それを自分の存在そのものの価値のものさしにしてしまうと、自己肯定感の低下(自己否定的)を招き、様々な神経症の発症の引き金になってしまうのです。

 

そこで、前回の記事の最後で話した、私自身に見出された新しい価値、人の存在そのものの価値とはなにかという話に入れるわけですが、それはまた次回の記事で書きたいと思います。

 

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