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前回の記事で、「私」は「運命としての私」と「運命を受け入れる者としての私」の2つで存在していると書きましたが、これらを言い換えると、前者は「生身の私」であり、私に起こる「外的出来事」のことであり、後者は、いわゆる「自己意識」のことでした。

 

そしてこの自己意識の中には、運命を受け入れたくない私も実際には存在しているということを書きました。

 

私が運命を受け入れるのを困難にさせるものとは何なのでしょうか?

 

運命を受け入れるのを困難にさせるもの

 

それは、自己意識の持っている「価値(善悪)判断」の能力のことです。

 

人はある物事を、善いものと判断すれば、それを受け入れることができますが、悪いものと判断したら、それを受け入れることはできないでしょう。

 

身近な例では、人はその商品が価値ある善いものだと判断するから、それを買うのであって、その商品を粗悪品と判断していたら、それを決して買うことはないでしょう。この場合、買うという行為の前提にあるのが、その商品を善いものとして判断しているということです。

 

ある物事を善いことと判断すること、それがその物事を「肯定する」ということであり、悪いことと判断することは、それを「否定する」ということです。

 

更に言うと、肯定するとは、その物事が「あって(存在して)いい」と判断することであり、否定するとは、その物事が「あって(存在して)はならない」と判断することなのです。

 

したがって、否定する場合は、その物事を受け入れることは当然ないわけです。

 

価値判断が自分に起きたこと(運命)に対しても適用されるとき、そして悪いこととして判断されるとき、人はそのことを受け入れることができなくなります。

 

誰かにむかついてしまう自分を受け入れられない理由

 

具体的な例を出してみます。

一つは、「生身の私」の出来事。

ある人が、誰のことも大切にやさしくしたいと思っているとします。しかし、実際には、生活の人間関係の中で、むかつく人が出てきて、それを苦にしています。

 

ここでの「生身の私」の出来事とは、何でしょう。それは、ある人にむかついてしまっていること、このことです。

 

しかしこの「むかつく」という出来事が、その人にとって、誰のことも大切にやさしくしたいという理想・信条からは外れてしまうことだとすれば、その出来事は悪だと価値判断されてしまうので、そういう感情をいだいている私自身(生身の私)を受け入れられないという事態が起きるわけです。そこに苦が生まれます。

 

「自分の理想(あるべき自分)」と、「生身の自分」とのかい離が自己葛藤、人の苦の大元にあることなのです。

 

人生を左右する出来事を受け入れられないことの本当の苦悩とは

 

運命的出来事を例にすると、ある人が火災事故に巻き込まれて自宅を焼かれてしまったとします。最初は、その人はその事故そのもの、あるいはその原因を悪しきものとするでしょう。

 

しかし最終的その人にとって悪しきものとは、なんの非もないのに自分の財産や家族を失ってしまった、その「理不尽さ」であり、その理不尽さに巻き込まれてしまった自分の人生そのものなのです。そんな自分はあってはならないということです。そこに最も大きな苦悩があるのではないでしょうか。

 

生身の私であれ、外的出来事であれ、それを悪と価値判断することによって、それは受け入れ難いもの、受け入れたくないものとなります。そして上で述べたように運命的出来事の否定も最終的には、自己否定へと落ちていくのです。

 

自己否定とは、自分があってはならないということであり、精神的葛藤(苦)の根にあるものです。

 

生きていく上で一番あってはならないものとは

 

したがって、本当は生きていく上で一番あってはならないものとは、自己否定なのです。しかし私たちは大抵、自分自身の何かをあってはならないものとして、否定しているところがあるのではないでしょうか。

 

今回の記事のテーマは、私が運命を受け入れるのを困難にさせるものでした。それは自己意識の中にある価値判断の能力として明らかにしました。

 

ところで、本来は自分に起こること(運命・現実)を受け入れるものとしてある自己(意識)が同時に運命を受け入れなくさせる価値判断の能力をあわせもっているということにはどういう意味があるのでしょうか。次回の記事では、価値判断の存在理由と限界について考えてみたいと思います。

 

 

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