こんにちは、下村順一です。
今回は、自分の感情は絶対的だ、ということについて書きたいと思います。
わたしのいじめ体験から具体例を出したいと思います。
それは、いじめられていた時の、いじめ加害者に対する私の恐怖の感情とそれに伴う生理反応のことです。
生身の自分自身の絶対性の例:恐怖心、おびえ
中学三年生の6月のとある日、わたしは突然校内で、彼に暴力を振るわれ、恐れおののき、ほとんど反抗もできずに打ち負かされ、ひざまずきました。それ以降卒業式までの10か月間ずっといびられぬかれました。
わたしは彼(わたしをいじめたのは彼ひとりです)にいびられ続けながら、なんて自分は弱虫で情けない奴なんだと自分を軽蔑し、自分のふがいなさに対する失望の日々でした。
あの時、彼が怖くて(感情)、彼の前では心も体も委縮して(生理反応)、抵抗できなかったことは、当時のわたしとしては、もうそうするよりほか仕方がないことでした。回避の方法など思いつきもしませんでした。
つまりその感情と反応は当時の私にとって絶対的なものだったのです。
絶対的なものとは、コントロールできず、仕方のないものとして受け入れるしかないものだということです。
それなのにわたしは、当時もそれ以降もずっと、恐怖心をもちビビッてしまった弱虫な自分の現実を認め許すことができず、自分を軽蔑し、責め、否定してきました。
そこにわたしの自己葛藤の、ひいてはいじめトラウマの苦しみの根っこがあったわけです。
自己葛藤の根は、現実の自分を許せないというその人自身の自己否定的なあり方にあるのだと思います。
結局その恐怖心とそれとセットになった弱いぶざまな自分という現実を受け入れられるようになるのに、14年くらいかかりました。
しかしこの記事を書いている今となってわかることは、あの時のわたしの恐怖心と心身の委縮は、感情的・感覚的なものであり、生理反応でもあるわけですから、責めたり軽蔑したりする対象ではなく、生身の自分自身から発せられるものである以上、仕方ないものだったということです。
そしてよく言われることですが、感情それ自体にいいも悪いもないのです。
勘違いされないようにいいますが、受け入れるというのは、加害者の彼がわたしにしたことではなくて、彼を前にわたしが感じたり反応したりしたことを言っているのです。
生身のわたし自身の感情と反応が絶対的だったというのは、絶対的なものは受け入れるしかないにも関わらず、わたしがそれを受け入れないで否定していた間はずっと重篤のうつ状態が続いたということでも証されるように思います。
別言すれば、絶対的なもの(ここでは生身の自分の感情や生理反応)を認め、受け入れない間は、ずっと自己否定して苦しんだと言ってもいいかと思います。
ところで、受け入れられなかったことが、受け入れられるようになったのは、何が変わったからなのでしょうか?
この話は次の記事で書きたいと思います。
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