「絶対的なもの」などという表現はあまり聞きませんよね。
意味不明だし、なんかそういうこと言っている人がいたら、嫌な感じだし何かを押しつけられたりするのではないかとか、思ったりするかもしれません。
しかし、わたしにとっては「絶対的なもの」が自分の中で受け入れられるようになったとき、わたしのトラウマからの立ち直りの第一歩がはじまり、現在においても「絶対的なもの」という観念は、わたしが人生を生きる上でなくてはならないものとなっています。
というのは、何かに迷ったり、悩んだりした時は、わたしは「絶対的なもの」を基準にして、自分なりの判断を出すようにしているからです。
これがないと行き詰ったとき、どう判断していいかわからなくて困ってしまいます。
「絶対的なもの」ということでわたしが何を表現しようとしているのか、更に「絶対的なもの」とは具体的には何のことなのか、そしてそれはわたしをどう助けているのか、ということを少しずつ話してみたいと思います。
「絶対的なもの」の特徴
まずきょうは「絶対的なもの」の特徴です。
「絶対的なもの」とは、誰にも何にもコントロールすることができないし、侵したり奪ったりすることができないものです。
例えば、天災。
東日本大震災、3.11のあの時、津波の被害に遭遇した人たちにとって、その出来事は極めて「絶対的なもの」だったと思いませんか?
誰にも何にもコントロールできない事態があの時おこったのです。
もちろん後から考えて、また第三者の立場から、対処のしようがあったとか、将来はコントロールをしていくことが可能になるかもしれない、などと言うことはできるかもしれません。
しかし「絶対的なもの」とは、私たち一人ひとりにとって「今、ここで(その時、その場所で)」の絶対性のものなのです。
その時は、もうどうしようもないこと、つまり絶対的なものであったのです。
絶対的なものは無条件に受け入れるしかない
もう一つの「絶対的なもの」の特徴は、コントロールできないもの、侵すことができないものであるがゆえに、「仕方がないこと」として無条件に受け入れられるべき、ということです。
東日本大震災は、それが起こったこと自体は、仕方がないことです。
天災は「受け入れる」しかないのです。
しかし実際には、被災者の人たちにとっては、そんな冷静に受け入れるなんてことは無理でしょう。
失った家族、失った財産を思うと「どうしてわたしが被災者にならなければならないのか」と、とても納得できず受け入れられないことでしょう。
そして受け入れられなかったことが受け入れられるようになるのは、それはどうしようもないことで仕方のないことだ、つまり絶対的なことだったのだと感得できた時ではないかと思うのです。
ひょっとしたらある人にとってはそれは奇跡に近いほどむずかしいことなのかもしれません。
すべてのことがコントロールでき取引できるわけではない
確かに科学は様々なものをコントロールし、支配できるようにし続けています。
私たちは、コントロールできたはずだと思うと、どうしてもそのことに執着してしまい、それを手放すことができません。
しかしそのことを手放さないでしがみついている限りは、人生を前へ進めることができないのです。
起きた不幸の原因に執着しつづけると、人は暗くなっていきます。
なぜならその出来事がその人に起こった納得のいく合理的な原因・理由など実はないのだから。
そして人は自分に起きた出来事に圧倒されると自己否定的になっていくのです。
まとめると、「絶対的なもの」の特徴とは、
① 誰にも何にもコントロールすることができないし、侵すこともできないもの
② 仕方のないことであって受け入れるしかないもの
絶対的なものを認めるところから自己を受け入れることがはじまる
「絶対的なもの」が不人気なのは、それが現代の主に先進国社会における科学でなんでもコントロールできるという万能感に反することであり、また「仕方がない」というのは何か負けを認めたような感じにさせられるからではないでしょうか?
絶対的なものだったと認めることができれば、仕方がないとして、現実をそのままに受け入れることができるようになると思うのです。
そして受け入れた上で、将来へ向かって現実的な検討ができるはずなのです。
絶対的なものなんてない、何か理由があるはず(したがってコントロールできるはず)だと思っていると、いつまでも過去に縛られて今の自分を生きることができません。
逆に言えば、絶対的なものに対してだけ人は、敗北を認めるべきだというのがわたしの考え方なのです。
そしてそれがわたしのトラウマから立ち直りの大きなポイントとなったことでした。
絶対的なものは、わたしは3つあると考えています。次回はもう少し具体的に話していきますね。
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