こんにちは、下村順一です。
わたしが辛いトラウマのトンネルを抜けて、
幸せを感じられるようになったのは、
自己肯定がある程度できるようになってからです。
わたしは中学のころのいじめ体験のトラウマで十数年苦しみました。
その時のわたしは、やっぱり不幸だったと思います。
自分を軽蔑していたから。
辛かったあ、自分を刺す分には手加減ないですからね、
刺して刺して刺し続けました。
軽蔑すべき自分を、それにふさわしいように扱っていたのだと思います。
自分が弱く、加害者の「彼」に打ち負かされ、膝づいたのが、許せなかったのです。
そんな無様な自分を、当時のぼくには許すような器量は全くありませんでした。
だからそんな自分を軽蔑して、自ら自分を軽んずるようなことをしていたのです。
でも、その軽蔑すべき自分はやっぱり今の自分であることには変わりないから、
それは厳然たる事実ですから、いくら自分をいじめても、返ってくるものは更なる苦しみ、
精神的苦悩だったのです。
自分っていうのは、二つあるのよね。
一つは、「生身の自分」、今を、この瞬間瞬間を生きている自分、
もうひとつはイメージとしての「自己像」というやつ。
この自己像と言うのが曲者で、自己像は、自分の理想や、親や社会から求められたものや、誰かから植え付けられたものでできている。
しかし、どんな自己像でもあってはならないのは、「ダメ人間」という自己像。
ダメ人間は人間失格でしょう。
ダメ人間の自己像ほど、悲しいものはないでしょう。
だって、ダメ人間なのだもの、もうどうしていいかわからないよっ、て。
自己像が自分の本体だと思っていた時は、それしか自分にはないと思っていた時は、
その思いに囚われて、つらかったー。
でも、たくさんの時間をかけて、多くの人に手をとってもらって、知識をえて、
ずーと冬の時代を耐え忍んでいた内に、自分の本体は、この破たんした自己像にあるのではなくて、
自分の本体は、今を生きるそのつどの生身の自分であることに気づいたの。
そして、一番大切にしなければならないものは、この今を生きる生身の自分であることに気づいたの。
確かに、過去の、あの時の自分は無様で最低の、男のくせに情けないの極致みたいのだったかもしれないけど、
でもわたしは、わたしだけは、その無様な自己をもあっていいものとして、そんな自己をも受け入れてあげなきゃって気づいたの、
そして、刺された傷の痛みや自分で刺してきた傷の痛みは今もあるかもしれないけど、
この瞬間を生きる生身の自分を大切にしていこうと思えたのです。
過去は変えられないけど、そこから作られた自己像をいつまでも抱え込んで、
それに今を生きる自分を邪魔させるようなことはしちゃだめだ。
わたしは、今を生きる自分を大切にし守る義務と権利があることに気づいたのです。
そして過去の自己像に邪魔させないとは、過去の自己像を負の遺産として否定し拒絶することではなく、あっていいものとして、存在していていいものとして受け入れて、自分のものにするということなのです。
そんな自分(自己像)も、かけがえのない今を生きる自己の一部として、自分の中に含み込ませることなのだとおもいます。
それはわたしを豊かにする。
わたしたちは、様々な自己像と関わらせられながら生きていますが、それらひとつひとつをかけがえのない自己自身として受け入れて肯定するとき、
初めて、ほっとして、安心できるのだとおもいます。
わたしが長らく追い求めていたのは、この安心(安んずるこころ)だったのだと思います。
傷は残ります、痛みも残ってます、でも痛みを持ちながらも、それもまた今を生きる自分のとして受け入れてやってゆこうという気になったのです。
受け入れてやっていこうと思ったとき、わたしは初めて幸せを感じることができたのです。
そのように感じられるようになったのは、10年以上前のことだけど、それからまたいろいろなことがわたしに起こったけど、
でも、わたしはそれ以来、ずっと幸せなんだと思います。
ということで長くなりましたが、
わたしにとって幸せは自己肯定感にあるのです。
そして不幸は、自己否定感、ダメ人間と思うこと、自己蔑視にあるのです。
あなたの幸せはどこにあるのですか?