こんにちは、下村順一です。
前回の記事でマルクス・アウレリウスを引いて、世間的な意味での成功(上昇)や失敗(下降)は、人間にとって問題ではなく、問題なのは、わたしがわたしであること、つまりわたしがわたしの存在(精神的理性的存在)にふさわしい実践をしているかどうかということだけだ、と書きました。
その際、精神的・理性的存在とは、どんな存在で、どんな行為がふさわしいのか、という点に関しては、留保させてもらいました。
きょうは、それについて再び、マルクス・アウレリウスの言葉を引いて、考えていきたいと思います。マルクス・アウレリウスはこのことについてたったの一文で答えています。
人は人のために存在する
人類は、お互い同士のために創られ、ゆえに彼らを教えるか、さもなくば耐えしのべ。
たったこの一文です。
「人類は、お互い同士のために創られ」とは、人は人のために存在する、というふうに言い換えられるかとおもいます。そしてこの命題を認めることができる者が精神的理性的存在だというのです。
これが認められないと先に進めないのですが、マルクス・アウレリウスは、頭(理性)と心(精神)を使って考えればわかるはずだと思っていて、これが大前提になります。
またこの命題だけでも議論しようとするとそれだけで大変なことになるので、あくまでもマルクス・アウレリウスの言い分を認めたうえで、先に進みます。
ちなみにわたしは無論、マルクスの言う通りなのだろうなあと思っています。
(え?だってすごい哲学者だもん、わたしの一方的なリスペクト)
今度は、じゃあ、精神的理性的存在者はどんなことを実践するのかというと、
精神的理性的存在者の実践
他人を教えるか、または、耐え忍べ
と言っています。これが精神的理性的存在者にふさわしい行為だというのです。すごい簡潔ですよね~
他人を教えるとはどういうことですかね~
そもそも何を教えるのかというのも問題です?数学?外国語?
わたしはこう解釈します、他人を教えるとは、「人は人のために存在する」という人間の真実を教えるのであり、更にそれに従って生きる「利他的あり方」みたいなものを教えるのであると。
そしてその場合の教え方を考えてみるに「人が日常生活の中でそれを実際に体現して見せていく」という仕方でしかこのようなことを人に教え得ないのではないだろうか。
人は人のために存在する、というのは人間関係の真実を表現しているように思いますが、この人間関係のことだけは、本や講義だけでは学べず、実際にそれを体現している人に立ちあってはじめて納得し、それをまねるという仕方で学びうるものではないかと思います。
そうだとしたらマルクス・アウレリウスが「教えなさい」、と言っていることはすごく難しいことのように思いますが、いかがでしょうか。
もし先ほどの命題「人は人のために存在する」ということを認めるならば、やられたらやり返すではなく、やられたとしても耐え忍べということになるのではないでしょうか。
だって人は人のために存在するのであって、他者を滅ぼすために存在しているのではないのだから。
もしあなたの存在が精神的理性的存在であるならば耐え忍べというのです。そうでなければ精神的理性的存在者を放棄して、あなたは何になるのでしょうか。
現今の世界情勢を鑑みるとき、そこには報復の応酬があります。マルクス・アウレリウスのたった一言がわたしには強いインパクトをもって迫ってきます。
人間にとって問題であるべきこととは
こういう風に考えてくると、精神的理性的存在であることとそのあり方(行為・実践)はきっても切れない関係であることがわかります。
前者を自分自身に認める時、後者のあり方の方も行為の形で結実しなければならず、あるいは、その行為(あり方)を伴わずして、精神的理性的存在とは言えないというわけです。
つまりもしあなた(わたし)が精神的理性的存在であると自認するならば、倦まず模範となって人を教え、それができなければ人の悪に対しては耐え忍ばなければならないという結論に至ってしまうのです。
しかしわたしは、人間というものは自分という存在(精神的理性的存在)の受け入れが深まる程度に従って、それが行為にも結実されていくものであると考えます。
そして人間とは、一方で簡単に野獣に落ちるし、またどんなに落ちてもまた自分の存在(精神的理性的存在)と向き合い受け入れる可能性を持つ存在なのではないかと思います。
マルクス・アウレリウスにとっては、世間的な出世や後退よりも、自分が自分の存在に忠実であること、つまり精神的理性的なあり方で生きていくことが一番の問題だったのです。
あなたにとって問題であるべきことはなんでしょうか?
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