トラウマ体験は人それぞれちがうものです。
虐待、いじめ、被災体験他さまざまなトラウマ体験があって、トラウマサバイバーの数だけ、トラウマ体験の形・内容と苦悩・症状があるのだとおもいます。
勘違いしてはならないのは、児童期虐待は他のトラウマ体験に比べてその後の苦悩が深いとか、いじめ体験でもいじめられた内容によって苦悩に軽重があるなどのように、トラウマ体験の種類や内容によって、その後の苦悩を測ったり、他と比較したりすることはできないということです。
唯一無二性:その人にしか生きれない人生をその人にしかできない仕方で生きること
トラウマ体験とその後の苦悩はその人固有のものであって比べることなどできないというところにこそ、その人の侵すことのできない尊厳も保たれているのではないでしょうか。なぜなら尊厳は絶対であり、比べられるものは相対的で侵すことができるからです。
トラウマサバイバーを自覚する人たちは、その社会の一般的な生き方からはかなり逸脱してしまっているかもしれない。
しかし、彼らの「その人にしか生きられない人生を生きているということ」(唯一無二性)は、決して、誰にも、何にも侵すことはできないのです。
わたし自身もいじめサバイバーとして人生がデフォルメ(奇形化)された一人であり、結果として現在の私は当時の自分の「思い描いていた理想の人生」とはかけ離れたものになりました。
しかしわたし自身の存在の本質である「唯一無二性」に開かれ、それはいまだかつて侵されたことはなく、侵しえないということに気付いたとき、はじめて安堵し、希望を見出すことができたのです。
わたしの存在そのものは実は傷ついていなかったのだ。傷ついたのは心理的自己のみだ。
苦悩は原理的に比べることはできないし、比べることができないところに苦悩を抱えている人の尊厳があり、それに対する畏敬の念も生まれるのではないでしょうか。
それはきっと他者という存在に対して畏敬の念を持つことと地続きのようにおもいます。
「ロンドン大学ユニバーシティカレッジの児童心理学者デポラ・クリスティは次のように述べた。「自殺計量器、苦悩計量器、悲哀計量器のようなものはありません。私たちには、患者の病気の重症度、あるいは症状の種類を客観的に判定する道具はないのです。できることは、人々の言葉に耳を傾け、彼らの感情の軌跡を受け入れることだけなのです」(『真昼の悪魔』第十二章「希望」)
苦悩を抱えて生きている人たちが、自分自身の言葉を紡ぎ語りだす機会と、それを傾聴される機会とに少しでも多く恵まれますように。
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