今回は、以前の記事で書いた大元の自己認知が変化した時、私の中に入ってきた新しい価値とはなにか、ということについて書きたいと思います。それは理屈の上では私自身の自己肯定にゆるぎない根拠を与えてくれているものです。
他に替わりのきかない自分自身の人生のユニークさという価値としての唯一無二性
それまでの私にとって、価値は相対的なものであり、そういう価値しか知りませんでした。つまり価値は比較で生まれるものだと思っていたのです。一番と二番だったら一番の方が上(価値が高い)という考え方です。しかしそれはある条件の元(例:テスト)での価値の上下しか言えないものでした。
相対的な価値を自分の存在そのものにまで当てはめてしまうと、序列の奴隷のようなことが起きてしまうのです。
私の認知が全身で変化した時、私に入ってきた価値とは、「他に替わりのきかない自分自身の人生のユニークさという価値」、というものでした。
私はそれを「唯一無二性」と呼んでいます。
それに対して以前の価値は、「相対的価値」と言えると思います。
言葉だけを単純にとらえれば、「相対性」の反対は「絶対性」ですが、私にはこの時、絶対性の中身が、唯一無二性として開かれ入ってきたのです。
唯一無二性とは
唯一無二性は文字通り、たった一つしかない(かけがえのない)ことの価値です。
相対的価値は、No 1の価値
唯一無二的価値は、Only 1の価値と言い換えてもいいでしょう。
あのsmapの大ヒット曲「世界に一つだけの花」が思い起こされます。
わたし自身の中に唯一無二的価値は次のようにして入ってきました。
「私の弱さを、私の情けなさを、私自身の固有のものとして生き抜くことができるのは私だけだ。私だけに与えられたものを私だけにしか背負えないものとして受け入れて生き抜くところに、わたしの存在のかけがえなさ、つまりこの世界でたった一つしかないおのれの絶対的価値(尊厳)があるのだ。」
いじめ加害者からの私の弱さの暴露は、わたしの属性の侮辱であり、私を心理的には深く傷つけましたが、私自身や私の人生が破壊されたわけではなく、また弱虫だからといってそれは自己実現の妨げにはならない、ということに気付けたのです。それらの人生の出来事ひとつひとつがわたしのかけがえのない唯一無二なる人生全体を構成しているものなのだから。
人生全体の唯一無二性は、誰にも何にも侵すことも傷つけることもできないものです。侵すことができるのは相対的価値のみです。
これが私にとっての「他に替わりのきかない自分自身の人生のユニークさという価値」ということです。そしてこの価値が見出されたとき、私は相対的価値の軛(くびき)から解放されていったのです。
この唯一無二性ということについてはまた、機会があれば書きたいと思います。
そして次回の記事では、絶対的なことの3番目について書いてみたいと思います。「他者の絶対性」「自己の絶対性」に続く3番目の絶対的なものです。
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