私の中で受け入れられなかったものが、受け入れられるようになったのは、何が変化したのか、ということについて書きたいと思います。
それは過去の事実に対する私の認知が変化したのだと思います。認知とは刺激に対する自分自身の受けとめ方のことです。
例えば、誰かから注意を受けた時、ありがたいなと思うか、うざいなと思うか、それが認知ということです。認知は人それぞれです。
わたしの認知ビフォー/アフター
認知の話には、次の図式がよく使われます。
刺激 ⇒ 認知 ⇒ 反応(行動、判断、感情)
この図式は、他者との人間関係にも当てはまりますが、自分の心の中の出来事にも適用できます。今回は、心の中での出来事についてです。
わたしのいじめ体験の例でいくと、
まずいじめ加害者の彼の前で、恐れて何も抵抗できずにいた自分の過去の事実(記憶)があります。これが私をずっと苦しめてきた事実であり、刺激です。
変化する前の私は、以下のようなことが頭の中でいつもぐるぐる回っていました。
刺激:恐怖、委縮、何も抵抗できなかった事実(記憶)
↓
認知:恐怖→弱い自分、委縮→情けない自分、抵抗できない→劣っている自分
↓
反応(感情・判断):悲観的、生きている価値のないダメな人間→自己否定
変化した後の私は次のように認知が変化したのです。
刺激:(上と同じ)
↓
認知:恐怖や委縮、何も抵抗できなかったのとは、仕方のないことであった。そのような自分独自の感情や反応・事実に、かえって他に替わりがきかない自分自身の人生のユニークさ(独自性)という価値がある。
↓
反応(感情・判断):自分というユニークな存在に対する自愛の感情(自分の存在を大切に思う感情)。自分は価値ある存在→自己肯定
受け入れるべきは私の中にある絶対的なもの
変化の後、認知のところで自分の感情や反応を仕方のないものとして受け入れられたのは、自分の内に自分でもどうすることもできない絶対的なものがあるということを認められたからだと思います。
そして、それを認めたら、逆にその仕方のなさにこそ、他に替えられない私自身のユニークな価値がある、という新しい価値が入ってきたのです。
こうした認知の変化を通して(自分自身に対する認知なので「自己認知」と言います)、
過去の出来事(感情・生体反応・行為)をめぐって、自分自身に対する判断が、否定的なもの(自分はダメ人間だ)から肯定的なもの(自分はあってもいいんだ)に変化していったのです。
この自分の存在に対する判断の変化が最も大きな変化だったのだと思います。
自己認知の変化には体感を伴わなければならない
これは単なる頭の中での答えではなく、一種の体感を伴うものでなければ、実効性をもたないものだったのでしょう。私の場合はここから、うつ状態が快復基調になっていきました。
私自身の中にある絶対的なものを受け入れるという変化が起こったということは、わかっていただけたかと思いますが、その新しい価値:「他に替わりがきかない自分自身の人生のユニークさ(独自性)という価値」ということで見出された私の価値とは一体何なのかについては書いていませんでした。
次回の記事では、私の自身の中に見出された新しい価値とは、何なのかを書いてみたいと思います。
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