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「絶対的なもの」シリーズは、なかなか先に進みませんが、今回でようやく3つ目の絶対的なことの話になります。

 

なぜ長々とこの話をしてきたかというと、絶対的なことⅠを読み返して思い出したのですが、絶対的なものの存在を認めることで、あるいは受け入れることで、究極的な意味で自分を受け入れられる、と思うからです。実際にはわたしがいじめトラウマうつ病から脱せられたのも、そのような絶対的なものを受け入れられた時だったように思います。

 

さて三つ目の絶対的なものとは、「運命」です。正確には、私にとって「私の運命」は絶対的だと言いたいのです。

 

反運命論者への反駁?!

 

運命論者というと、いまでは人気がなく、あまり自称する人も少ないかもしれませんが、わたしはある意味、運命論者です。その意味は、運命という存在を認めている立場の人間ということです。それは最終的には絶対的なものの存在を認めることにつながっているのです。そしておそらく多数派だと思われる反運命論者とは、運命という存在を認めない立場の人ということではないかと思います。それは同じく絶対的なものの存在を認めない立場の人と言い換えることができるかと思います。

 

よく聞く表現を例に考えてみたいと思います。

① 運命に勝つ(負ける)

② 運命論は人間の自由を否定する

 

今回は、①について書きます。

 

運命に勝つ(負ける)とか言うのは違うんじゃないの?

 

「運命に勝つ」とか言う人は、運命を自分にとっての対象物と捉えているように思われます。つまり自分が自分の運命を、距離をとって客観的に見たり、それをコントロールしてそれの方向や動きを変えられるものとして見ているということです。

 

しかしこれは私に言わせれば大きな誤解です。

 

「私の運命」は、私の対象物ではなく、それは「私の本体」となるものであって、決して私から見られるものではなく、むしろ「意識としての私」つまり「自己意識」は、「私の運命(私の本体)」に付き従うものとしてあるということです。

 

「私の本体」ということで意味しているのは、一つは、絶対的なことⅢ絶対的なことⅣで書いたように、私の生理反応や、感情、もしくは衝動といった「生身の私」のことです。生身の私の挙動こそコントロールできないという意味でまさに私にとって運命的なものではないでしょうか。これらを私は絶対的なこと(仕方のないもの)として受け入れるしかないのです。

 

もう一つは純粋に外的な出来事、それこそ天災が降りかかるといったようなその人の人生を左右するような影響力のある出来事はまさに運命的出来事と言っていいでしょう。

 

自分自身の感情や衝動と外部から私に起こる出来事も合わせてその全体が「私の運命」なのであり、「私の本体」だと私は思うのです。

 

その人の人生を左右したことだけを、運命的という傾向がありますが、実際には、きょうの晩御飯は、焼き肉ではなく焼き魚だったという小さなことでも、それもまたれっきとしたその人のその日の運命に違いないのです。たとえ鼻毛一本が抜けるのもそこには「私の運命」が統率しているのです。

 

「運命としての私」と「運命を受け入れる者としての私」

 

「私」という存在は「運命としての私」と「運命を受け入れる者としての私(自己意識)」の2つが相即的に構成しあいながら、ひとつの「私」として実際に存在しているのです。(※)

 

(※)「私の運命」と「自己(意識)」のどちらかが優先して存在しているということではなく、運命があれば、自己(意識)があり、自己(意識)があれば、私の運命がある、という仕方で両者が相伴いながらひとつのものとして存在していることを「相即的」という言葉で言い表そうとしました。難しいですね、ごめんなさい(。-人-。) ゴメンネ

 

そして「私の本体」すなわち「運命としての私」を自分ではコントロールできない、侵せないものとして、受け入れることこそ、まさに「私が私自身であること」(私が私自身と一つになること)になるのです。私は自己実現というときはいつも自分自身と一つになることを念頭に置いています。

 

「運命を切りひらく」という表現があります。もしこのような事態があるのだとすれば私は次のように解釈したいと思います。

 

「運命を切りひらく」とは、自分に起こる出来事を私の運命として無条件に受け入れて、その運命(によって与えられた境遇)を、何かのために「生かす」こと、この事態のことを言っているのだと思います。

 

「何かのために生かす」とは、わたしにとっては、「他者のため」あるいは「全体の調和のため」に、自分の境遇を生かすことなのではないかと思っています。

 

運命と戦うという事態がもしあるとすれば、それは「運命を受け入れる者としての私」と、「運命を受け入れられない私」との戦いなのであって、運命そのものを対象化してそれと戦うという話ではないのです。この意味で運命に勝つという表現はナンセンスなのではないかと私は思っています。

 

「運命を受け入れられない私」はどこからくるか

 

「私」は「運命としての私」と「運命を受け入れる者としての私」の2つで構成されていると言いましたが、上で述べたように実際には、「運命を受け入れたくない私」もあることに気付かれると思います。これは一体どういうことなのか、ということについては次回の記事で書きたいと思います。

 

今回は、運命とは、私の外部にある対象物ではなく、むしろ「私の運命」こそ「私の本体」なのであり、私の運命は私の人生全体を統率するものとしての「私」という存在の本質に属するものであるというところまでを述べて終わりにしたいと思います。

 

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